伊藤學回顧録③ 戦争、そして学制改革 変転の時代に小中高と

田中豊先生の思い出

――田中豊先生とのご縁は、他にもあるそうですね。

伊藤 世界地震工学会議が1960年(昭和35年)に日本で開かれた時、田中先生は地震の専門家ではありませんが、土木の大家ですから基調講演をご依頼したのです。(恩師の)平井敦先生が会議の組織委員の1人でしたから、私はその下で、田中先生にあれこれお願いしたり、原稿をいただいたりする役回りでした。

(中略)

富山から浦和へ

――お父上は1941年(昭和16年)8月、富山から内務省(その後、建設省)に復帰、本省に転勤となりました。

伊藤 ええ、富山から途中で戸倉温泉に一泊して引っ越しました。

――都内ではなく、浦和にお住まいになりました。

伊藤 内務省の知り合いが浦和に住んでいて、誘われたようです。私は埼玉県立師範学校の附属小学校に転校しました。5年生の2学期からでした。

(中略)

富山大空襲で亡くなった同級生も

――戦争の時代でした。

伊藤 当時あった刑務所から市街地にかけて爆弾が落ち、焼けたことがありました。浦和の空襲の被害は帰りがけの残った弾によるものらしく僅かでした。

東京を空襲した後、茨城沖に抜けるB29の編隊はよく見ました。私自身は空襲も疎開も経験せず、浦和に住み続けていました。

ところが、浦和の前に住んでいた富山は終戦の年の8月になってから空襲を受け、私の同級生も4、5人亡くなりました。

(中略)

新制大学の1期生

――そして、終戦です。

伊藤 戦争に負けた時、私は中学3年生。同い年で、「お国のために戦うぞ」と中学1、2年から陸軍幼年学校に行った人もいました。でも私は軟弱な人間だったから(笑)、軍隊に行くなんてことは全然考えていませんでした。ただ、工学部に行って船舶工学でも学べば、将来、船、軍艦ですね、そういうことで役に立てられるのでは、といったことは頭にありました。

――その後、高校、大学と学制が変わる時期でした。

伊藤 私は旧制の中学に入って、これは(12歳から16歳まで)5年制ですが、4年生で旧制高校を受験できました。私も4年生で旧制浦和高校を受けたのですが、5年間あるからとあまり勉強していませんでしたから、合格できませんでした。そう恥ずかしいとは思っていませんけれど(笑い)。5年生の時の受験で合格できたのです。

ところが、旧制高校の試験に4年生で落ちて5年生でも落ちた人が同級生にいて、そういう人は学制改革で新制高校の3年生に移行しました。そして新制の東京大学を受けて、3年目にめでたく合格した人もいます。2年続けて試験に落ちても浪人しないで済んだわけです。

私の場合は、1年生が終わる時点で旧制高校がなくなりました。でも、自動的に新制大学に移れるわけではなく、あらためて入学試験を受けろと。大学に入ったのは、1949年(昭和24)でした。新制大学の1期生です。

その頃はまだ、敗戦後のみじめな状態が続いていて、道路なんかもひどい状態でした。

(全文は「橋梁通信」5月1日号でご覧ください)