伊藤學回顧録④ 恩師が導いてくれた 橋梁の世界

学部時代 専攻は橋梁ではなかった

――伊藤先生は1949年(昭和24年)、東京大学に入学しました。

伊藤 新制大学の一期生です。総長は南原繁先生、学生が入学して最初に入る教養学部の学部長は矢内原忠雄先生と、そうそうたる先生方でした。

――初めから橋梁を勉強されたのですか?

伊藤 それが、違うのですよ(笑い)。

――「えっ」と驚きます。

(中略)

バケツとストップウオッチ

――では、卒論も橋梁ではないのですか?

伊藤 「開水路の限界レイノルズ数」というテーマでした。開水路とは海や川で、対する閉水路は管で閉じている上下水道などです。レイノルズ数は流体力学の概念で難しく聞こえますが、実際はバケツとストップウォッチを手に、勾配を変えた水路の流量を測定するという単純労働的な実験でした(笑い)。

(注略)

公務員試験合格 建設省に行くはずが

ーー卒業後の進路はどのように考えていたのですか?

伊藤 土木はやはり国家公務員として建設省(当時)に入るのがやりがいのある仕事だと思っていましたから、私も試験を受けて、まあまあの成績で合格したのです。そうしたら、就職担当の教授が後の恩師、橋梁工学の平井敦先生でした。「今度、新制の大学院ができる。私の研究室に来ないか」と誘われたのです。平井先生の研究室は助教授がいなくて、助手しかいませんでした。その方も東大の出身でなかったものですから、平井先生はどうも私に目を付けて、後継者としてスカウトしたのではないかと推測しています。平井先生は直接おっしゃいませんでしたが(笑い)。

――どう決断されたのでしょう。

伊藤 このまま建設省に行けば、いつまで経っても親の七光りだなんて言われそうだと考えました。当時は国鉄(現JR)でも親の後を追って就職する人が多かったですから。

――伊藤先生はこの段階で橋梁に出会ったのですね。

伊藤 言葉は悪いのですが、後はズルズルです。軌道に乗せられて、ドクターコースまで行って、その後、長大橋の時代になって、という訳です。ですから、私の人生を漢字一文字で表すなら、「運」あるいは「縁」ということです。主体性がないと言われそうですが、正直そうなんです。

(全文は「橋梁通信」5月15日号でご覧ください)