伊藤學回顧録⑤ 足音が近づいた 長大橋時代

 西海橋の建設現場を目の前で

(前略)

――伊藤先生が大学院に進んだ1953年(昭和28年)ごろ、橋の世界はどんな様子だったでしょうか。

伊藤 それまで日本でははまだ、著名な橋と言えば隅田川に架かる橋くらいで、話題になるような大きな橋はほとんどありませんでした。それが、私が大学院に進んだ頃から、動き出したのです。最初は西海橋でした。長崎県の「伊ノ浦の瀬戸」に架かるので、当時は伊ノ浦橋と呼ばれていましたが、それが東洋一のアーチ橋だと言われて、工事が始まっていたのです。それから、若戸橋の建設が話題になりそうな時代でした。

1955年開通の西海橋
(長崎県観光連盟提供)

 

それで、平井先生から、大学院では夏期実習がカリキュラムにないが、せっかく、こういうチャンスだから、

伊ノ浦橋の工事現場へ実習に行くよう言われたのです。

東洋一と言われた橋が出来上がっていくのを目の前で見ることができました。

大学院の時 瀬戸内海の橋を描く

――本四架橋はどんな段階でしたか?

伊藤 公団(本州四国連絡橋公団)ができたのは1970年(昭和45年)でずっと後のことですが、当時から話は出始めていました。紫雲丸事故が起きて、小学生が大勢亡くなったのです。橋があればこんな悲惨な事故は起きなかっただろうという声が上がりました。

――本四の件で東大にも何か影響がありましたか

伊藤 本四架橋のうわさ話が出てきた頃から、教授の平井敦先生は熱心に取り組んでいました。紫雲丸の事故もあったし、神戸の明石大橋だけでは困ると言って、香川県の知事が、岡山県側まで橋を架けたい、現地調査をしてその計画を作ってほしいと平井先生に依頼したそうです。

それで、夏休みに研究室の助手や大学院の学生らのグループが男木島(おぎじま)、女木島(めぎじま)など瀬戸内海の島々へ泊まり込みで行きました。今で言えば漫画みたいなものですが、橋を架けるとすればこういうものという図を描き、青焼き(青写真刷り)の報告書にまとめました。本四公団ができる10年以上前のことです。

瀬戸内海の島伝いに橋を架けるとなれば、ケーブルで吊った橋、当時で言えばまず吊橋が主役になります。私もその分野を専門にしようという気持ちになりました。

平井敦先生 先見の明がある研究者だった

――具体的にはどんな研究を?

伊藤 平井先生が熱心にやっておられたのは吊橋の耐風安定性に関する問題で、ちょうどその頃、西海橋の完成に続いて同じ九州で計画が進められていたわが国初の本格的吊橋、若戸橋の設計に関わる風洞模型実験を引き受けられました。そこで、1956(昭和31)年秋から約2年にわたり、研究室の同輩たちによって、航空学科の風洞を借用しての実験的研究が進められました。一方、平井先生が私に与えたドクター論文のテーマは、吊橋のように柔らかい橋、揺れやすい橋の上を長大な高速鉄道の列車が通れるか、検討しなさい、ということでした。こうして、吊形式の橋が私の本業というか、研究の出発点となったのです。

――瀬戸中央自動車道とJR瀬戸大橋線が一体となった瀬戸大橋のようなスタイルを平井先生は想定していたわけですね。

伊藤 非常に先見の明のある方でした。独創性があるのです。1940年のことですが、アメリカのタコマ橋という大吊橋が風で揺れるというので、白昼、大勢が調査のため見ていた目の前で、海の中に落ちたのです。完成から4か月しか経っていませんでした。

その事故がニュース映画になって、日本の映画館で上映されたのを、平井先生がご覧になったのです。そして、まだ若い教授だった平井先生は、自分の一生の仕事を考えていたのでしょう、これを俺の研究テーマにしようと。日本でそんなことを考える人はいなかった時代です。

関係年表

1951年(昭和26年) 西海橋着工

1953年(昭和28年) 伊藤先生 大学院修士課程へ

1955年(昭和30年)  4月 伊藤先生 大学院博士課程へ

5月 紫雲丸事故

10月 西海橋竣工

1956年(昭和31年) 伊藤先生 米国イリノイ大学大学院に留学

1957年(昭和32年) 原口神戸市長 明石海峡大橋の調査費を市議会に議案提出

1959年(昭和34年) 伊藤先生 大学院博士課程を修了、東大講師に

(全文は「橋梁通信」6月1日号でご覧ください)