伊藤學回顧録⑥ カルチャーショック 戦後11年の米国留学で

平井敦先生 風洞 そして設計組織の揺籃期

――東大大学院時代の恩師で、伊藤先生を橋梁の世界に招いてくれた平井敦先生は、先見の明があった方と伺いました。

伊藤 東大に橋梁の風洞実験室を作ったのも、平井先生でした。先にお話ししたように、当時、土木の教室には風洞がなく、航空学科の風洞を借りていたのです。ただ、橋向けではないものですから、使い勝手が悪かったのです。

それで、平井先生が「これからの時代に必要だから、橋梁のための風洞を作ろう」と。文部省(当時)に働きかけて予算を付けてもらいました。そういう力もある先生でした。完成は1964年(昭和39年)です。本四架橋の話が正式に始まる前のことです。

――本当に先見の明のある方だったのですね。

伊藤 風洞といえば、日本は台風がよく来るので風の問題は大変だというので、明石海峡大橋を作るために、つくば市(茨城県)の土木研究所(注2)の敷地内にものすごく大きく、立派な風洞が作られました。明石海峡大橋の100分の1の模型が入る大きさでした。幅が41mもありました。

ところが、--

(中略)

長大橋の設計に向けて

――平井先生の思い出を、もっと聞きたく思います。

伊藤 私は現在、コンサルタントの株式会社長大の顧問を務めています。東大を定年退官して埼玉大教授になり、そこも辞めて国家公務員でなくなった1996年(平成8年)からですが、実はこの長大は平井先生が作られたようなものなのです。

本四架橋に熱心に取り組んでいた先生は、吊橋など大きな橋の設計がこれから大事な仕事になると考えました。もちろん、いずれは公団ができる<本四連絡橋公団の設立は1970年(昭和45年)>だろうが、その人数だけでは足りない、設計は民間のコンサルタント会社などに発注することになるだろう、ということです。

そして、建設会社や橋梁会社、コンサルタントなどから優秀な若手を1人ずつ招き、10数人を組織化しました。最初は別の会社にお願いして1室を借り、「長大橋設計室」という看板を掲げました。それが、そもそもの卵だったのです。

その後、本四架橋だけでなく仕事が増えて「長大橋設計センター」に発展し、さらに、橋以外の仕事もしようと、現在の「長大」になりました。

先生が作られたような会社だし、私も会社の人をよく知っているので、非常勤の顧問になったわけです。

氷川丸で渡った太平洋

――さて、伊藤先生は博士課程の途中、1956年(昭和31年)秋から1年間、平井先生の元を離れました。

伊藤 26歳の時、アメリカのイリノイ大学に留学しました。太平洋は氷川丸で横浜とシアトルを往復です。

(中略)

――船旅はいかがでしたか。

伊藤 横浜港の大桟橋から出発して、シアトルまで2週間でした。1人旅です。船室は確か1等から3等までありましたが、私は留学生でも2等に乗りました。だから、フルコースの食事は出るし、船内で様々な催しはあるし。有名なヴァイオリニストの演奏会や、ダンスパーティもありました。私はダンスができませんでしたので、ただ見ているだけでしたが(笑い)。

フルコースの食事なんて、生まれて初めてです。グレープフルーツも生まれた初めて食べました。こんな、おいしいものがあるのかと(笑い)。

強烈に印象に残っているのは、2週間、海ばかり見てシアトルに上陸した後のカルチャーショックです。大きな乗用車がたくさん走っている、ドライブインシアターがあって広場に大きなスクリーンが架かっている、ランチはドライブスルー、高層ビルが建っている、家庭に行くと大きな冷蔵庫がある。本当にカルチャーショックでした。

日本はまだ、土木の目からは、道路もひどい時代です。国道だって、砂利道のような所もありました。敗戦から11年でしたから。

(全文は「橋梁通信」6月15日号でご覧ください)