伊藤學回顧録⑩ 瀬戸内圏との不思議な「縁」 若いころから

伊藤 學先生は「私の人生を漢字1字で表すなら『運』あるいは『縁』と話された(回顧録④)が、とりわけ本四架橋との縁は本格的に仕事にタッチする前から深かったと、インタビューの折々に感じる。また若い頃の研究の思い出話には、伊藤先生の行動力、好奇心が満ち満ちていた。

東京から20時間余 急行「安芸」で

――1978年(昭和53年)の瀬戸大橋着工から20年近く前の1959年(昭和34年)にまとめた学位論文のテーマが鉄道吊橋だったというお話(前号回顧録⑨)を伺うと、本四架橋と伊藤先生の長い「縁」を感じます。

伊藤 確かに、瀬戸内圏には不思議に縁がありました。私の身内は東日本に偏っているのですが、遡りますと、大学に入った年から2年間、建設省の技術者だった父(令二氏)が広島に勤務(中国四国地方建設局長)していたのです。

休暇の時など、急行「安芸」に乗って、東京から帰省しました。今と違って呉線回りで20余時間がかりです。時には座席に座れないこともありました。

大学3年の時には、夏季実習で愛媛県の伊予三島市(現・四国中央市)に1か月滞在して、銅山川のダム建設のための測量などに汗を流しました。

――香川県の委託を受け、研究室の皆さんと架橋のための調査に行ったこともありました(回顧録⑤)。

伊藤 私が博士課程の時の夏休みです。瀬戸大橋には、現在の児島・坂出ルートと、高松寄り2ルートの3つの候補がありまして、これらの架橋計画を立案する作業をしました。

まだコンピュータのない時代です。香川県庁の一室を借りて、手回しの計算機を使っての仕事でした。ここは吊橋にしよう、こちらはトラス橋を架けようなどと、青焼きの図面を描いたものです。

暑かったですね。エアコンもない時代ですから(笑い)。扇風機を回して、皆で汗をかきかき、でした。しかし時には、舟で瀬戸内海の小島を訪れたりして、楽しい夏でした。お魚もおいしかった(笑い)。

――伊藤先生は後年、本四架橋のいろいろな部分にかかわりあって来ました。

伊藤 関連する学会や協会の委員会活動、公団の委員会や委託研究などと、本四架橋とは長い付き合いが続きました。技術関係だけでなく、景観がらみのものもありました。

(中略)

講師の立場 すんなり入れた

――行動力、好奇心に加えて、研究の幅広さも感じました。さて、博士課程を終えて、普通は助手からスタートすることが多いのに、伊藤先生はいきなり講師になったと伺いました(回顧録⑨)。仕事はスムーズでしたか。

伊藤 実は、博士課程の時も、身分は院生なのに、助手というか、秘書的な仕事までしていました。研究室に助教授や講師がいなかったからです。もちろん秘書もいません。科学研究費の申請書作成の手伝い、学部学生の設計演習の指導もしました。

英語に慣れた人が極めて少なかったこともあって、留学経験のある私は海外からの文書や訪問者との対応もしたものです。

ですから、割とすんなり講師の立場に入っていけました。

――恩師の平井敦教授の代講もしたということでした(回顧録①)。

伊藤 平井先生は講義が上手で、まじめな方であったはずですが(笑い)、なぜか休講が多かったものですから。助手や秘書的な仕事だけでなく、講義の面でもすんなり、先生と呼ばれる講師になることができました。

(全文は「橋梁通信」8月15日号でご覧ください)