忘れない 海峡横断プロジェクト 3 津軽海峡① 「ここもわが領土」 ノルウェーで

 

津軽海峡の架橋イメージ図(公益社団法人 土木学会)

「本州・北海道架橋を考える会」は、北海道・函館の建設会社・工藤組の福西秀和社長が1994年(平成6年)に発足させた。もちろん今も存続している。

福西社長

「対岸の青森・大間の町が函館から見えるのですよ。私は昆虫採集が子供の頃の趣味で、本州に渡って、北海道にはいない昆虫を探したかった」

「考える会」のきっかけは90年(平成2年)、当時は本州四国連絡橋エンジニアリング社長だった吉田厳氏が「道路」(日本道路協会)に寄せた一文だった。津軽海峡にはなぜ、架橋プロジェクトの声が出ないのか。「へーっ」と思った。

翌年には、北海道開発局の大橋猛氏が書いた「青函連絡橋の夢検証」に触れた。津軽海峡で分断されている道路網が直結された場合、札幌―東京間が1100㎞余の高速道路でつながれる、期待される整備効果は極めて大きい、とあった。

折から函館青年会議所の理事長を務め、地域振興に取り組んでいたこともあり、「考える会」の活動を本格化させた。「何を、馬鹿な」という声もあったが、めげずに各地を訪れては海峡架橋の必要性を訴えてきた。

「例えば宇宙開発にしても、副産物が生活の中にたくさん生まれるではありませんか。海峡の架橋も、ただ単に橋を架けることにとどまらず、新しく大きなものが生まれる可能性があります」

ここも わが領土

ノルウェーで開かれた海峡横断橋などの国際会議に参加し、同国内も視察したことがある。フィヨルドの海岸線に美しい橋が連なり、北極圏に近く何もない所まで道路が整備されていた。「こんな場所に道路を造っても、ふだん誰も通らないでしょう」。そう尋ねると、答えが返ってきた。「ここも、わが領土ですから」。

先駆け・大橋猛氏は49歳の若さで

海峡架橋の先駆け・大橋氏は夢の実現を見ないまま、98年(平成10年)、がんのため49歳の若さで亡くなった。病魔と闘いながら書いた詩が残っているという。そこには、「技術者が夢を捨てたら、もはや技術者ではない」とあった。

「大橋さんの遺志を受けて津軽海峡大橋を実現することが、大橋さんの情熱に応えることであり、安らかな眠りを保つために最適な鎮魂歌でもあるのではないでしょうか」