柳澤昭洋氏 寄稿 想いでの端々(はしばし) ①八ッ場ダムの橋

 

柳澤昭洋さんは歩いた。かつては橋梁設計者として、橋が架かる前の調査のため、現場を何度も歩いた。今、76歳。架かった後の橋を歩き続けている。手がけた橋が無事で、そして、地元の人に愛されていることを確かめるために。その足跡を、橋梁通信は折に触れて掲載することにした。橋に関わった思い出の端々を記録にとどめるためだ。初回は、群馬県・八ッ場ダムとその周辺に架かる橋。波乱の経緯をたどったダムを久しぶりに訪れて、柳澤さんは何を思ったか。

 

 

「戦後ダム事業の総決算だ」

「35年も前の話である。昭和58年から59年にかけて、八ッ場ダム工事事務所の仕事で、ダム湖に沈む国道145号線の付替に伴う道路概略設計並びに施工計画検討という設計業務に携わった。付替ルート検討、橋梁や擁壁等の道路構造物の形式検討等が主要な業務内容だった。

ダム建設に対しては、800年の歴史を持つ川原湯温泉を始め、地元の反発が強かった。建設省は現地調査に入ることも出来ず、群馬県が水没者の「生活再建策」を昭和55年末に提示、地元との協議を進めていた。

当時の事務所長が語った言葉が今でも忘れられない。「戦後ダム事業の総決算だ」「完成の暁には、東京都民の皆さんにぜひともダム天端から見ていただきたい」。計画遂行に向けた強い意志を感じた。

(中略)

橋梁計画に提案する場面があった。ダム完成の暁には大きな観光資源になることも考慮し、「橋梁技術の粋を集めた橋の展覧会」というコンセプトで計画したら、4つの湖面橋の形式は「吊橋」、「斜張橋」、「桁橋」、「アーチ」で検討したらと、今にして思えば少し乱暴な提案をしたことを思い出す。当時は地元との協議の真っ最中でもあり、橋梁計画に対する議論が深まる余地はあまりなかった。

それから約10年後の平成5~6年、幸いにも当時は尾坂橋と呼ばれた「長野原めがね橋」(写真上)の設計に携われた。4つの湖面橋のうち最上流部に位置し、半島状に突き出た土工部約70mを挟んで二度湖面を横切る形で架橋される。地形、河川上の制約から下路式アーチを主に形式比較を行い、2連のニールセンアーチ橋(L=148m)+2径間連続鋼箱桁(L=43.5m+43.5m)が選定された。幅員は、車道8m+歩道2×3m。半島部に設置される橋台は、2基とも高さが23mと高い。近隣中学校への影響回避、道路の供用形態との関係から橋台間は垂直壁として、幅29mの両面テールアルメ(双璧)構造とした。橋台背面はFCB(気泡混合軽量盛土 ɤ=10kN/㎥)を使用して、橋台と下層地盤への土圧軽減を図っている。このテールアルメの最大壁鷹は24.3mで、当時直轄国道管内最大だった。

(中略)

平成30年5月、久しぶりに現地を訪れ、ダムの本体工事を見学しながら既に完成した湖面橋を眺めた。もうダム湖の底面に工事関係以外は入れず、天空を渡る橋のような景観は望めなかったが、ダムの湖面はあの辺りか、そこに映るだろう橋の姿を想像できた。

主要な橋梁のうち鋼橋は1橋だが、形式名称が示す如く多士済々である。八ッ場大橋は、一度吊橋として設計されたという話を思い出し、吊橋のケーブルの優雅な曲線が湖面に映る姿と技術伝承が出来たのにという勝手な想いを抱きながら、緑深い現地を後にした。

柳澤昭洋(やなぎさわ・あきひろ)氏 1942年疎開先の群馬県で生まれ、戦後、東京で育つ。66年早稲田大学理工学部土木工学科卒業、日本橋梁入社。76年綜合技術コンサルタントに転職。同社常務、専務を経て、2008年代表取締役社長。15年取締役相談役、16年退任し、17年SMCシビルテクノス工事統轄部・技術設計Gに技術顧問として入社、現在に至る。綜合技術コンサルタント時代に、管理技術者として約100橋の設計に従事。日本橋梁時代に、約10橋の設計に関与した。

(全文は「橋梁通信」2019年1月15日号でご覧ください)