川田忠樹回顧録「独創自立」① 吾れ暁に魚を見たり 明石海峡大橋 受注で

伊藤學・東大名誉教授は橋梁通信に長期連載した回顧録の最終回(5月1日号)で、日本橋梁建設協会が主宰する「伊藤學賞」に触れ、第7回受章者・川田忠樹氏(川田テクノロジーズ・川田工業相談役)について、「川田工業をトップクラスの専業会社に育てた経営者としての功績もありますが、それとともに、橋梁に関する本を多数、激務の傍らに書いたのは驚くべきこと」と語った。そこで、回顧録の新シリーズとして川田氏に登場をお願いした。

川田工業 地方の「無名・後発」から羽ばたく

因島大橋の油絵の前に立つ川田氏

――相談役室に素敵な橋の油絵が飾られていますね。

川田忠樹相談役 因島大橋です。本四で最初にできた吊橋でした。

――手前に白い花が咲き誇り、橋を見下ろす高い位置から描いています。

川田 社員の奥さんが2008年に描いて、贈ってくれました。

(中略)

――吊橋といえば、今なお世界最長の明石海峡大橋です。

川田 この橋が最も思い出に残っています。

(中略)

川田 上部工事のすべての工程にグループが参加できたのです。また、川田工業として初めてJVの一員として施工しました。

世界一の橋を架けたいという全社挙げての夢が、ついに実現しました。父で前社長の忠雄へすぐに報告したものです。

――グループが工事に参加するのは当然のように見えますが。

川田 いえ、ここまでたどり着くには、容易ではありませんでした。川田工業は当時、本社が富山県福野町という片田舎にあり、橋梁に本格的に参入し始めたのは昭和50年代終盤。無名の後発組です。

私たちが本四への参入を目指して臨海工場の土地を四国で探していると聞いて、ある橋梁メーカーの役員は私に面と向かって言いました。「土木の世界は実績がモノを言う。この会社はこれくらいの仕事ができるという能力を買うのだが、それは過去の実績で評価するしかない」と。

彼の話に一応の筋は通っていましたが、本四を架けたい、世界一の橋を造りたいと、工場建設を進めました。

ところが、(中略)

川田 経営的にも辛苦の時代でした。

――川田工業はなぜ、本四に参画できたのでしょうか。

(中略)

――受注が決まった時はうれしかったでしょうね。

川田 JVの親会社として補剛桁工事を落札したと報告を受けた時、私は思わず「吾れ暁に魚を見たり」(注3)とつぶやきました。

「エイ、エイ、エイ」と威勢よく 補剛桁の閉合式

――補剛桁の閉合式はいかがでしたか。

川田 忘れもしません。96年9月18日でした。これが終われば橋は完全に一体になりますから、最も待ち望んでいた節目です。

晴天に恵まれ、約250人が参加して補剛桁上中央部で盛大に行われました。神戸側と淡路側それぞれ9人が、私は淡路側でしたが、橋の中央部を挟んで対面し、「エイ、エイ、エイ」の威勢良い掛け声とともに、最後の金ボルトを締めます。

そして、中央で握手を交わしました。拍手と歓声、くす玉が割られて白いハトも舞い、感動的でした。

(注)十和田湖は火山の噴火でできた湖のため、古来、魚は生息できないとされていた。明治から大正にかけ、和井内貞行はそこでの魚の養殖に情熱を注ぎ、約20年間も苦闘。私財を投入し、変人扱いされながらも、ついにヒメマスで成功した。その喜びで「吾れ暁に魚を見たり」という言葉を発したと伝わる。50年に映画化された際のタイトルは「われ幻の魚を見たり」。

 

(全文は「橋梁通信」2019年6月15日号でご覧ください)